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じゅう箱のスミ

2006.NOV

VOL.11


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この街のスミで…

2006年2月。

久しぶりにジスイズのカウンターに民子さんと東さんが並んだ。「今では顔を合わせるのは1日に1、2時間程度かな」と顔を見合わせる2人に、どこからか金色の光が差し込んだ

腐ったら、サヨナラ 小林 東さん 民子さん

5年程前だろうか。釧路市内を車で運転中に、人影のない歩道を寄り添い歩く2人連れに目がとまった。細身の黒いジーンズに黒いジャケット。全身黒ずくめの男性が、真っ青な空の下、老齢の女性とぎゅっと手をつなぎ、まるで恋人同士のように優しく語りかけながら歩いていた。『介助』ではない。それは、愛のこもった『お散歩』だ。この一見不似合いなカップルに目をこらし、「あっ」と小さく声をあげた。

伝説のジャズ喫茶へ

伝説のジャズ喫茶―。全国の音楽通の間でそう呼ばれる、漆黒の壁に包まれた喫茶店「ジスイズ」。黒ずくめの男性はその店主・小林東(あずま)さんだった。老女は同居する、詩人で妻の藤田民子さんの母親。男性は、義母との『青空散歩』を終えると、足早に漆黒の世界へ向かった。37年前、今も『好敵手』と呼び合う詩人と扉を開けたその店へ。

「久しぶりだなぁ、民さん」

「そうだねぇ―」

2006年2月、釧路市栄町のジャズ喫茶ジスイズ。カウンターに立った民子さんに、常連客が嬉しそうに声をかける。1969年、東さんと同店を開店。店のウェイトレス役を担う一方で、詩壇でも活躍し、1992年には北海道詩人協会賞を受賞。10年程前から、家庭に入り、今は自宅で94歳の母親と過ごしながら、筆を進める。この日、久しぶりに夫婦が店に立ち、薄暗い店内が活気づいた。

「何をしたら負けないのか」

ジャズ喫茶ジスイズ。精霊が住む―とも表現される厳かな空気にひかれ、国内外の第一線のアーティストたちが、さびれかけた繁華街の片隅にあるこの小さな喫茶店にやって来る。ライブ数、年間40本以上。カウンター奥の壁は、無数の小さな穴で塗装が剥げ落ちている。チケットを貼り付けた画鋲の穴だ。37年間、地元文化の発信役を担い続ける足跡が、そこにある。

今はカウンターに一人立ち働く東さんに、ある時、そのパワーの源を尋ねた。予想外の答えが、あっさり返ってきた。

「僕は、民子に捨てられないように頑張ってる。彼女は自分で創作しているけれど、僕はミュージシャンでも芸術家でもない。じゃぁ、できることは何か。何をしたら負けないのか。お互い腐ったらサヨナラと言い合っている。生涯の好敵手」

小林東さん(62)。還暦を迎えた一昨年の成人の日、「還暦は、生まれ変わる第二の成人」と、市の「20歳の集い」に新成人とともに出席した。「一緒にいて飽きない人ですけど、これにはあんまり共感できないわぁ―」。民子さん(60)は、東さんが20歳の若者と微笑むスナップ写真に、大きく笑う。

ジャズ喫茶の渋いマスターとして知られるが、もともとは演芸好き。幼い頃、祭りの日には、小銭を握り見せ物小屋に走った。三味線、浪曲…、芝居小屋の楽屋をのぞいては、化粧に励む役者の姿をずっと眺めていた。

2004年1月、「還暦は第2の成人」と「20歳のつどい」で新成人と並んだ東さん(右端)

子ども時代は吃音(どもり)だった。何を言っても聞き返される。伝わらないもどかしさに「言葉は敵だ」と思った。音楽や体を使った芸能なら、言葉よりもっと正直に自分を伝えられるはず。芸人になりたかった。小学5年からのクラブ活動ですかさず「演芸部」に入部したつもりが、そこは園芸部―。作り話のような実話だ。今も100円の丸眼鏡ひとつで、志賀直哉、正岡子規、ゴッホ…と次々と顔真似をしては、民子さんを笑わせる。

15歳で釧路新聞社に入社。映画館の広告担当となった。子ども時代は小遣いのほとんどをつぎこんだ程の映画ファン。「願ってもない仕事!」と勇んで、映画館に通い詰めた。

もう一つは『少年さん』と呼ばれる役割。各記者クラブを周り、締め切り時間までに記者から原稿を集め、社に届ける集配役。原稿の出が遅いと評判の記者たちをやんわり急かし、時間内にまとめさせるのが腕の見せ所だ。その気にさせる話術は、演芸好きが功を奏した。ごっそり集めた原稿の束に、社内で「名少年さん」と呼ぶ声が上がった。

最初に『読む』人

民子さんは高校卒業後、18歳で釧路新聞社に入社。高校時代から詩を書いていた民子さんにとって、記者は憧れの職業だった。

「あの頃は、貧しくて、きかん気で、物を書くのが好きだったら新聞記者しかない―と思ってました(笑)。世間知らずのおさげ髪のまま入社して、上司を『おじさん』と呼び大変な目にあいました(笑)。一番年が近かったのが、1歳上の東さんでした」

記者業の傍ら詩の創作は続け、19歳で初めて、社内の記者仲間3人と詩集を出した。題は「港にいた」。詩を書き下ろすと、いつも最初に見せたのは、東さんだった。

「18歳の頃から今だに、わたしにとって一番信頼できる読者は東さんなんです。必ずしもほめてくれる訳ではないんですよ。一番ズバリと評価や意見をくれる。だから、憎たらしいけど、最初に見せるのはやっぱりこの人」

うまがあった。2人は出逢いをそう表現する。42年前、ライバル関係が始まった。

東さんが生のジャズに出会ったのは20歳の時。釧路に黒人クラリネット奏者、ジョージ・ルイスがやって来た。虐げられてきた歴史の中で生まれた、体を躍らせるスィングに胸が高鳴った。千人を超える観客の最後部で夢中で立ち上がった。「一生のうち一度はジャズで飯を食おう」と決意。夢の行く先は、釧路を離れ、東京、海外へと飛んだ。民子さんへも「僕はこの街を出ていく」と宣言した。

23歳。幣舞町の高台にあった公民館でのライブ後、一人、繁華街へと下りる長い坂道に立った。目の前に釧路川に臨む街の夜景が広がった。小さな瞬きではあったが、川の水面に映ったビーズのようなきらめきに、なぜか涙があふれ出た。

「自分が素晴らしい街に住んでいること、やりたいと思っていることができる場所が目の前にあることに、その時初めて気づいたんです」。

東さん25歳、民子さん23歳。揃って新聞社を退職。1969年6月25日、コーヒーの淹れ方も知らないままに、釧路市栄町の古いたばこ屋跡で、ジャズ喫茶を開店した。経費節減で、内装は耐火ボードを黒く塗った。壁を飾るパネルは、ジャズ雑誌のグラビアを切り貼りした。友人のインテリアデザイナーの初仕事だった。間もなく結婚。プロポーズは民子さんからだった。『藤田』は旧姓でペンネーム。「小林民子」になった。

念願のジャズ喫茶。道路を挟んだ、栄町公園の向こう側まで響く大音量でジャズを流した。客に「小さくしてくれ!」と怒鳴られた。当時、釧路の喫茶店で最年少のマスターは、「わかりました」とつぶやき、ボリュームを最大に上げた―。

その眼差しを見てみたい

民子さんが店に立つのをやめ、毎日、一人で出勤する東さんは、肩には必ず、家出少年のような大荷物を背負う。民子さんが「何が入っているの?」と聞いても、中身は見せない。その怪しげな姿に、警官から職務質問されたこともある。「気が向いたら帰ってくるけど、どこかへ行きたくなったら、行くつもりなんだろうなぁって、毎日大荷物を背負う背中を見て思ってます」。久しぶりにカウンターで並んだ夫を横に、妻は笑う。妻はこう続けた。

―自分も60歳になった今、東さんが老人になって、車いすに乗ったりする姿につきあってみたいという『欲求』が、すごくあるんです。その時、彼は何を見つめているんだろうって。きっと、その時の眼差しが、東さんの決定打。彼の本当の価値が分かる。

生きて死ぬ。その『無』に近い最後の瞬間に澄み切っているもの、それが『好敵手』。敵の価値を見極めたい―と、老いにさしかかった今、思うんです。

生涯の好敵手

ジスイズのカウンターにはいすがない。東さんは深夜の閉店まで、座ることなく立ち続ける。「この店は、僕の私物じゃない。集う人が作る空間。皆が感性を磨きに来る道場。だから、僕も、この世界の真ん中に立っている。民子は出会った時に僕に『あんたは水の上でも歩ける人だ』と言ったんです。瞬間が勝負―って意味だったらしいんです。そうだ、水の上でも歩く勢いで前に進んでいこうじゃないか―って、今も思ってます」。

老舗ジャズ喫茶の、明日の伝説を紡いでいたのは、生涯のライバルの言葉だった。

(文・佐竹直子/写真・酒田浩之)

常連客が撮影した写真。毎日、24時間一緒だった頃。店内は今とほとんど変わらない


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