チャレンジ隊の人・声・街をつなぐ サクサク情報 おしょーゆマガジン

じゅう箱のスミ

2006.JANVOL.10

E-mail >HOMEじゅう箱のスミWebVOL.10>この街のスミで

この街のスミで…

ブラジルの大地をゆったりと流れるコンゴニアス川。

かつてそこでピラニア釣りに興じた少年が今、北海道の東のスミで、夜の診療室に立つ。

ネスタ・ファ 〜この道〜 豊橋眞成さん

「なおこちゃ〜ん、ひどい虫歯がずいぶんあるよ。忙しいって言ってないで時間つくっておいで。何時だっていいから」

夜の歯科医の診療台。白衣の医師は、ずいぶんと大人になった私を今も少女のように「なおこちゃ〜ん」と呼んでくれる。

*ブラジルからの「先輩」

ブラジル出発直前、8歳(前列中央)の時、熊本県球磨郡の寺の前で家族と

幼い頃、我が家には、釧路市内の高校で教師をしていた父の教え子たちがひんぱんにやってきた。その中に、詰め襟の学生服がどうも似合わない、際立って貫禄のある生徒がいた。まだヒゲも青い同級生たちは皆、彼を『先輩』と呼んだ。『先輩』は時々我が家で、知らない国の言葉の歌を聞かせてくれた。その曲を歌う時、いつも『先輩』は壁の向こう側の、どこかもっと遠くを見ていた。まだ小学生だった私は、その視線の向こうに何があるのか、不思議でしょうがなかった。

「これは、ブラジルの歌なんだよ」。26歳にして高校1年生。詰め襟の似合わないその青年は、赤道の向こう側、ブラジルからやってきた。

豊橋眞成さん。1994年、釧路市内では草分けの夜間専門の歯科医院を開業した。今も午前9時から夕方までは市内の叔父が開業する眼科歯科医で働く。その後、自身の医院で夜間診療を行う。患者から電話があると、夜中や早朝でも治療にあたる。漁師からの電話に起こされ、午前4時に治療したこともあった。

「痛みはできるだけその日のうちにとってあげたい。僕が育ったブラジルでは歯科治療に保険がきかず治療費がすごく高かった。歯が痛くても父に言えず、いつも我慢していた。そういう人がいっぱいいたんです」

熊本から赤道を越え

1950年、熊本県球磨郡、球磨川のほとりの小さな寺に生まれた。6歳の時、僧侶の父親、龍雲さんが「あとからおまえ達も呼ぶから」と言い残し、単身、ブラジルに渡った。当時のブラジルは、日系移民にとって長く辛い時代をようやく終えようとしていた頃だった。景気も日本よりはるかに良く、「1年働くと家が建つ」とまで言われた。

8歳で母と兄、姉、2人の弟とともに、神戸港からブラジルへ向かった。満員の船は「もうひと花咲かせたい」という夢を抱いた日本人の熱気で沸きかえった。

45日間を費やしサントス港に着いた。欧州風の石畳の道路はいかにも「外国」だった。父親と、勤め先の寺の代表が、コーヒー豆を積む大きなトラックで迎えに来た。子供たちを荷台に乗せたトラックは、ドカンドカンと車体を大きく揺らし、家族の新天地へ走った。

サンパウロを抜けると、ブラジル特有の赤土『ポエーラ』が舞い上がり、全ての景色は土煙の中に消えた。しばらく走るとそれはパッと一瞬で消え、魔法のように、地平線の向こうまで広がるコーヒー農園が現れた。

「地球全部がコーヒー畑だ―」

少年は驚きで目を真ん丸にした。

家族が住んだのはパラナ州のウライ市。人口約1万5000人の日系人中心の街だ。少年が入学したのは、ブラジル人が通う現地の小学校。初登校の日、校庭に集まった子供たちの輪に、一人が「ヴァーモス・ペソアウ(行こうぜ、野郎ども)!」と叫び、ボールを投げ込んだ。サッカーの始まりだ。後から来た子供たちがどんどん加わり、あっという間に30人の大ゲームが、少年の前で始まった。ボールは30分でパンクした。それが、本場サッカー王国ブラジルの子供たちの姿だ。

サッカーもポルトガル語もできないまま、熊本生まれの少年の学校生活が始まった。教科書が読めない。先生の話しも分からない。当然、成績は上がらない。

ブラジルでは小学生も落第する。年5回の試験で各教科が平均で100点満点の50点以上であることが進級のボーダーだ。

小学3年で留年?!

小学3年の時、年度の最終試験の3日前、教師が言った。「試験は受けなくていい」。たとえ今回全教科が満点でも、年間の点数を平均すると及第点には至らない。つまり『留年決定』だ。

釧路に向かう前にブラジルの寺で。後列左から3番目が25歳の豊橋さん。家族とともに

小学3年にして留年―そんなことはとっても親には言えない。試験当日、自宅で何食わぬ顔で勉強するふりをしているのを、母のミルさんが見つけた。「今日、最終試験じゃない!」。事情を知らずに、試験を受けさせようと学校に連れて行った。当然「留年決定」が発覚。ミルさんは廊下で声をあげて大泣きした。「何ごとか?」。数人の教師、ついには校長までが駆けつける騒ぎとなった。

ミルさんの大泣きに押されてか、少年は「受けなくてもいい」と言われた試験会場に入るように担任の女性教師に促された。テストをめくると、答えはほとんど分からない。

白紙の答案を見つめていた少年の周りに、すでに試験を終え、教室を後にしていた優等生たちが集まってきた。そして口々に、問題の答えをささやき始めた。担任の女性教師は「騒がないでね」とだけ注意し、その場からそっと目をそらした。公然の秘密としてカンニングは進んだ。

優等生のささやきに導かれるように、問題すら読めない日本人少年の答案用紙が、ポルトガル語の正答で真っ黒に塗りつぶされた。母の涙と『公然カンニング』に助けられ、少年は優等生たちと一緒に4年生に進級した。

「ブラジルの人たちは、本当に情が厚く優しい。僕は日本が恋しくて、家では父の書棚の小説からエロ本まで(笑)あらゆる日本語の本を読みあさっていた。でも日本語を読めば読むほどポルトガル語が上達しなくなる(笑)。そんな僕のことを同級生や先生はよく面倒を見てくれました」。

26歳、釧路で高校生!!

1978年の釧路北陽高校の卒業アルバムを開く。10代の若者たちの列に、渋い顔をした10歳年上の豊橋さんが並ぶ。

「8歳でブラジルに渡ってから25歳まで、一度も日本には帰ってなかったんです。生まれは九州・熊本だし、釧路なんて来たこともない。日本に帰ってきた―っていうより、また外国に来ちゃった―って感じでした」。

ブラジルの大学でポルトガル文学を学び卒業後、サンパウロの寺院で事務職として働いた。寺は日系人の社会。しかしブラジル社会では、外国人登録の移民は、教師などの公務員になることも、一般企業で就職することも許されなかった。

1978年、釧路北陽高校卒業アルバムより。28歳の「先輩」(後列左端)の横にリーゼントヘアの同級生たちがずらっと並ぶ

父の跡を継ぎ僧侶になるには、日本で資格をとらなければならない。父親は一度日本に戻り、勉強することを勧めた。当面の行き先は、母親の弟が住む北海道の釧路市。当時、日本でヒットしていた歌謡曲、美川憲一の「釧路の夜」は、ブラジル日系人の間でも人気だった。「あの歌の舞台の街か」。好奇心も沸いた。

釧路に着いたのは3月。雪が残っていた。熊本生まれブラジル育ち。本格的な積雪を見たのは生まれて初めてだ。初対面の叔父、眼科医の中村幹夫さんは、開口一番言った。「お前、高校に行け」。日本の中学校3年間分の教科書を1年間で頭に詰め込んだ。

26歳、釧路北陽高校に合格。リーゼントヘアに『スカボン』と呼ばれる太いズボンをはいた同級生たちが、「先輩!」と呼びゾロゾロと後をついてきた。勉強嫌いと思われていた彼らが、「勉強を教えてくれ」と言ってきた。本当は学びたがっていたのが分かった。試験前の『一夜漬け』に毎回、付き合った。ブラジルで、言葉が分からないために留年寸前となった自分に、答えをささやいてくれた優等生たちの姿が重なっていた。

医大受験に2度挑戦するが失敗。日本での進学を断念し、ブラジル帰国の資金を貯めようと、釧路市内の水産会社に就職した。業務はアンモニアの蒸発熱でマイナス42度まで魚を冷却する「冷凍機関士」。爆発の恐れもある危険物を預かった。仕事後には漁師たちと酒を交わし、時には相撲を競い、体ごと人と向き合うことを覚えた。

2年後、叔父に歯科医の道を進められ、わずか2ヶ月の受験勉強で歯科大学に合格。水産会社で命がけの仕事を負った集中力が生きた。31歳だった。

25歳でブラジルを離れてから、一度もその地に帰ったことはない。進学、受験、就職また受験…と休む間もなく走り続けるままに、気がつくと30年が過ぎた。

「故郷?熊本であり、ブラジルであり、釧路でもあるなぁ。これからも、またどこか行くかもしれないよ。今までだって、遠回りだとは思ってないな。どれも無駄じゃなかったから。まだまだ道の途中」。

ブラジルでの少年時代、よく口ずさんだ歌は「ネスタ・ファ(この道)」。長い道の先を照らすように、この夜も、街角の診療室に明かりを灯す。
(文・佐竹直子 写真・酒田浩之)


−VOL.10 表紙に戻る−


Copyright(c)2001-2006 Challenge Network Vollunteer Action All Rights Reserved.