「これからですか?いやーぼちぼちですよ」と笑う有岡さん。「有名になりたい訳じゃない。家族を持ったおかげでまた音楽がやりたくなった。それが人生として幸せなこと。それ以上でもそれ以下でもないです」。熟練したブルースには家族と過ごすお茶の間もよく似合う。 |
ギターの優しい爪弾きが響く。そっと瞼を閉じてみる。静かな住宅街の小高い丘から見下ろす古びた街並みとゆったりと広がる海原が浮かび上がる。曲の名は『休み坂』。
「2年前に釧路に越してきた時、職場の近くに『ふるさとの散歩道―休み坂』っていう小さな石碑を見つけたんです。そこには海を見下ろす小さな坂道がありました。あぁ、釧路の人たちはこんな小さな坂道にも名前をつけて大切にしているんだなぁ、いい街に来たなぁって思ったんです」
彼が長身の背を丸めそっと弦に触れた。ギターだけで歌い上げるその旋律に、見慣れた風景がいつもより優しくふんわりと思い浮かんだ。
「今日のお客さんはホントいい。釧路の人はホントいいなぁ―」 2005年4月。釧路市北大通のバー。彼がギターに手を触れた瞬間、店内に緊張感が走った。1本のギターが激しくそして時に繊細に何重にも音を重ねて広げていく。その弦の響きと艶を帯びた歌声に、店内を埋めた客が息をのみ、ため息をつき、そして沸いた。やまない拍手にステージの主役が同じ言葉を何度も繰り返した。
ギターを抱えた長身でヒゲのその人はプロでも地元で顔なじみの演奏家でもなかった。釧路では初ライブの、45歳のアマチュアミュージシャンだった。
「この間はありがとうございました―。仕事でしゃべる時間が長いもんですぐ声がガラガラになっちゃって聞きずらいでしょ。すいませんね
有岡修治さん(45)。ライブ後「休み坂」近くの職場まで訪ねると、身体を半分に折り曲げて頭を下げてきた。あの晩の主役とはまるで別人の、ワイシャツにちょっとゆるめたネクタイ姿でデスクに向かう、ごく普通の45歳の働く男の日常の姿だった。
1959年6月12日、北海道津別町生まれ。中学2年、友だちが弾き語りで歌った井上陽水がカッコ良くて「俺だって!」と初めてギターを手にした。中学3年、昼休みの校内放送ジャックに挑む。放送室にギターを持ち込み吉田拓郎の「旅の宿」を歌った。そんなわんぱく音楽小僧の噂はすぐ街に広がった。
「お前、一番最後に好きなだけ歌え」
年に一度、町内のアマチュアバンドが集まるライブに誘われた。声をかけたのは20代も半ばの地元では人望のあるミュージシャンだった。演奏したのは陽水の3曲。最年少の音楽小僧への客席の反応は熱かった。その快感が小僧の「音楽魂」に火をつけた。
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北見市内の高校に進学。長谷川きよしのギターに心酔した。「ギターは歌の伴奏だけじゃない、楽器なんだ」。血液型はB型。やりだしたら徹底的にやるタイプ。ブルース・コバーン、ステファン・グロスマン…。当時、アコースティック・ギターに新しい命を吹き込んでいったミュージシャンたちのギターを弦の震えまで正確にコピーしようと、毎日レコードプレーヤーに張り付き、ギターを鳴らした。
東京の大学に進学。「中央のプロの世界を見てみてえー」と勢い乗り込んだが、その世界には抵抗を感じた。「自分が好きな音楽をやっていこう」。卒業後、ふるさと北海道で就職した。
初任地は網走市。全道展開の音楽活動をスタートした。金曜の勤務が終わるとギター片手に愛車スターレットに飛び乗った。旭川、札幌、小樽を周り北見経由で日曜の晩までに網走に戻るライブツアーだ。曲はすべてオリジナル。毎月それを繰り返した。「すごいやつがいる」。そんな噂が道内ミュージシャンたちの間に広がっていった。
しかし4年後、音楽小僧は突然、ギターを置いた。
「周りから『うまいね』『スゴイ』ってよく言われたけど、嬉しくなかった。自分も尖ってたから『聞きたい奴だけ聞けばいい』ってとこはあったんです。お客さんと気持ちが通じあってなかったんだろうなぁ。一生懸命になれなくなってきた。何で俺は音楽やってんだ―ってずっと自分に問い掛け続けた。でも答えが見つけられなかった」
ギターを置いた手は持て余したりなんてしない。結婚もした。パラグライダーで、道内中の空を飛び回った。どこまでも空中散歩を続ける彼についた愛称は「降りないくん」。ここでも徹底的にやる性分が出た。北海道大会を制覇。全日本大会にも乗り込んだ。空でギターのことを思い出すことはなかった。どこにしまってあるのかすら分からなくなったまま15年が過ぎていた。
「かっこいいでしょ?」
2005年5月。長男の亮祐くん(4つ)が自宅でギターを弾く有岡さんを前に目配せしてきた。横で自分も小さなギターを抱えてみせる。早くも板についている。親子ライブもそう遠い日ではなさそうだ。
Photo:2005年4月 |
ホームページには亮祐くん撮影の「とーちん(有岡さんのこと)」のライブ写真がアップしてある。もう欠かせないスタッフだ。妻の晴美さん(39)、長女の紗希ちゃん(2つ)も含めた家族4人でライブに向かうのが現在の有岡家の鉄則だ。
「行動はいつも家族一緒。今の自分の音楽は家族がいるからあるんです」。そう言って亮祐くんの頭をなでた。
ギターを再び手にしたいと思ったのは2001年12月、亮祐くんの1歳の誕生日を1カ月後に控えた時だった。
「こいつ音楽好きみたいだな、一緒に音楽できたらいいなって単純にそう思ったんです。友達は『子どもは皆、音楽好きだろ』って笑うんですけど」
当時住んでいたのは紋別市「藻別」。30世帯ほどの酪農家が住む集落に離農した後の住宅を借りていた。隣の家も500?程も先。だからギターも思い切り鳴らすことができた。
近所の野菜農家の若い夫婦が夏場、連日の農作業でぐったりしていた。何か力になりたい。でも、農家でもない自分に一体何ができるのか。ある晩、ギターを抱えて家族3人でその夫婦の家を訪れた。
「俺さ、ギター弾くから」
そう言って、茶の間で唐突に演奏した。夫婦は驚いた顔で、目の前でギターを操る彼の手元を見つめ、歌に聞き入った。帰り際、この突然のお茶の間ライブの理由をたずねる訳でもなく夫婦は言った。
「また明日から頑張るわ」
あぁこれなんだ。20代の頃、見つけられなかった「なんで俺は音楽やってんだ」との自問への答えを、その時、胸にこみあげた熱いものが教えた。
活動を再開し気づいたのは15年のブランクの重さ。思うようにギターが弾けない。20代の頃の自分の演奏をテープで聴き必死でコピーした。まるで中学生の時に井上陽水を夢中でコピーしたように。
あの頃の声が出ない。1日2箱は吸うヘビースモーカーだ。翌月、たばこもやめた。釧路に転勤した翌年、2004年7月。津別町でのライブの5日前、音程がとれない程に声が出なくなった。当日、ライブ前に病院に寄ると医者は言った。
「ポリープですよ。声は出さないでください」
でもその日のライブは必死で乗り切った。その後手術。再開したばかりの音楽活動を再度、休止せざるをえなくなった。
2005年4月、北大通のバーで、再復帰第一弾ライブのステージ。家族が見守る中、緊張の面持ちでそこに立った―。
「若い時は『何のために』の答えを必死で探してた。でも今は、そんなのなくてもいいんじゃないって思うんです。生きるってそうじゃない?死ぬために生きる人はいない。今、僕にとってギターは、日々の暮らしを感じる道具。目的なんてなくていい。ただ生きていく喜びのためだけでいい」。
生きていく喜びのために―ただそれだけのために奏でられるギターがこの街のすみにある。
(文・佐竹直子 写真・酒田浩之)
Photo:愛娘の紗希ちゃん
有岡さんの釧路でのソロライブ第2弾が7月16日午後7時半からジスイズで開かれます。
問い合わせは 0154−22−2519へ。
HPは「有岡しゅーじ」で検索するとヒットします。秘蔵ライブCDを聴いてみたい方は編集部まで。
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