「このあたりは何回歩いても面白い、啄木の歌碑や歩道のタイル、古い建物の一つ一つをじっくり見て歩くと釧路の歴史が分かってくるんだ。もっと早くにそう気づいてたら、また違ったんだろうな」。高杉さんの案内で南大通りを歩いた。見慣れた街角が、歴史漂う、ロマンの街に変身した。 |
シンと静まりかえった釧路市議会議場。議員の熱弁だけがろうろうと響く。いつもほとんど人影のない傍聴席に、最前列で身を乗り出し聞き入る青年がいた。一語一句聞き落とすまい―とするように必死にメモをとる。働き盛りの年代と見えるが、平日の日中に開かれる議会に翌日も、その翌日もやってきた。―2003年6月。
「あ、彼ね。太平洋炭砿だったんです」そんな声を聞いた。
釧路の基幹産業として街を支え続けた太平洋炭砿が閉山したのはその前年、2002年1月30日だった。ヤマの労働者は関連企業と合わせて約1500人が失職した。彼もその一人だった。議場を見下ろす目に厳しさを感じたのは、気のせいではなかったのかもしれない。
「クシロデシクロ」。
2003年8月。ちょっと心躍るネーミングの乗り物が、くしろ港まつりでデビューした。
ベトナムの伝統的人力タクシー「シクロ」が「釧路」の響きに似ていることをヒントに、市民有志が廃棄処分の車いすと自転車のリサイクルで独自のシクロを開発した。
「釧路で走るシクロ」だからクシロデシクロ。通称・デシクロ。操縦者を「エンジンマン」と呼ぶ。
Photo:中心街のイベントで「デシクロ」をこぐ高杉さん、雑踏の中をかきわけるのもシクロならでは |
祭りに訪れた市民で賑わう北大通。「え―、何これ?」。初お披露目のデシクロの前には乗車の順番を待つ列ができ、さっそうとこぐエンジンマンたちの姿が市民の目をひいた。
当初は市職員の有志で構成していたこのグループ「シクロ・プロジェクト」に、一般市民からエンジンマンが一人加わっていた。
「お客さんにベトナム語のこんにちわ“シンチャオ”ってあいさつしようと思ってたのに緊張して言えませんでした」。
身長180cmを超える体格で悠々とデシクロをこぎ控えめな笑顔で話すこの青年が、議場に通い続けていたその人だったと知ったのは、夏祭りからずいぶん後のことだった。
高杉利志幸さん(40)。今やプロジェクトの中でも1番のこぎ手のエンジンマンだ。1人で、2日間でのべ300人を乗せたこともある。釧路の魅力づくりを狙ったユニークな取り組みとして報道された新聞記事を見て「これだ!」と思いエンジンマンに名乗り出た。
入り口は「人力車」だった。
閉山後間もなく奈良に旅行した。目にとまったのが観光案内の人力車。ピンときた直感は「乗りたい」ではなく、「引きたい」。
「タクシーだとパーッと見て通り過ぎるけど、ゆっくり、ところどころ止まってお客さんと話す人力車を見て直感したんです。次の仕事のあてもなかったし、何をやりたいって思いもなかったんだけど、何でだろうな。これやりたいって思ったんです。調べたら、あったんですよ、人力車の会社。でも社員は20代ばっかり。自分のトシじゃダメだ―ってあきらめました」。
そんな時に新聞で見つけたのが、釧路で「シクロ」を走らせようと準備を進めるグループのエンジンマン募集の呼びかけ。ボランティアではあったが、「人力車」の直感がつながった。
ベトナム式の人力車とも言えるシクロは、その記事を読むまでまったく知らなかった。初めて「デシクロ」の完成品を見た時は「人力車の方がかっこいいんじゃない?」とも思った。でも注目したのはドライバーの位置だ。
客の前を引き手が走る人力車に対し、シクロのエンジンマンは客席の後ろからこぐ。奈良で見た人力車では、引き手は客と話す度に車を止め振り返って声をかけていた。シクロなら、走りながら客に声がかけられる。客の前には妨げる物は何もない。思う存分、目の前の景観が楽しめる。釧路の新しいシンボルとして、観光ビジネスにも育つ可能性があるんじゃないか―。そんな直感が再び働いた。
「外野席から街に意見を言うんじゃなくて、中から街を考えてたい―ってはやる気持ちがあったんです。それまでの自分はヤマの常識だけで生きてきた、世間の常識は知らないし興味もなかった。閉山して外に出て、色んな角度から社会が動いているってことが今さら分かって、自分のできることでほんのちょっとでいいから、街を変えていくことに参加したいって考えるようになりました。かなり遅咲きですけど」
Photo:太平洋炭砿時代―現場へ向かう。 |
太平洋炭砿で17年間坑内員を勤めた。出勤するとまず着替え、ヘルメットをかぶり頭にライトをつける。弁当、着替え、水を持ち、現場まで坑内員を運ぶ「人車」に乗る。採炭の現場までは遠いところで片道1時間。真っ暗な闇を潜っていく。183cmの背丈では採炭用に掘削した現場では頭がつかえ屈んで歩いた。腰が痛んだ。現場は蒸し暑い。働き始めた頃は水をがぶ飲みした。家に戻ると疲れ果てすぐに眠った。自宅と暗い採炭現場を往復するだけの毎日。同僚には趣味や地域活動で活躍する者も多くいたが、そんな気にはならなかった。
ヤマの第一線、採炭を担当した。最も炭塵をかぶる場所だ。暗闇の中でさらに頭からつま先まで真っ黒にすすけた。閉山の引き金となった自然発火事故の時、現場に居合わせた。警察や通産省の事情聴取を受けながらも、緊迫感を感じなかった。
「国の補助がなくなったら炭砿はなくなるとうすうす感じていたから閉山にも驚かなかったんです。どこかで『何とかなるさ』って思ってたな。世間知らずっていうか、自分の中でヤマと社会がつながっていなかった」。
デシクロの活動の一方で、市議会の傍聴に通い始めた。一般質問では、特に雇用と観光の問題を慎重に聞いた。自分も、まちづくりに何かできないかと思うようになった。1日8時間を超える試験勉強を続け、市職員の採用試験を受けた。―不採用。
「かっこつける訳じゃないけど、勉強は無駄じゃなかった。まちづくりに中から加わりたいという思いは余計に強くなりました」。
シクロプロジェクトでは、デビュー2年目の昨年秋、当初の目的だった「シクロで観光案内」の実現に向け、有料の観光ガイド走行を試行した。エンジンマンがガイド兼務だ。観光資料は山ほどあるが「自分の目で確かめたい」と、手帳片手にコースを歩いた。
釧路市で生まれ育ったが、幣舞橋の四季の像もどれがどの季節の像なのか知らなかった。釧路川は本流にダムを持たない全国でも稀少な川の一つであること、現在のフィッシャーマンズワーフMOOの場所もかつては川だったことも現場を歩き学んだ。出世坂、幣舞公園、挽歌の碑、石川啄木の歌碑や南大通の歩道の街の歴史をデザインしたタイルの一枚一枚も、足で調査しメモをとった。わかったことは、市内に残る歴史の足跡の価値―。
「シクロは観光ビジネスにつながる活動と実感しました。ゆっくり眺めて初めて分かる小さな面白さが沢山あるから。今までヤマの暗闇しか見てなかったから分かるのかな」
Photo:結婚式では新郎新婦も乗せちゃいました―釧路の夢を運ぶクシロデシクロ。 |
昨年秋、警備会社に就職。釧路発祥の地とされる南大通界隈再開発へと立ち上がったNPOにも加わった。その会議で「やりたいこと」の問いにこう答えた。
「冬場、港文館の前に毎日アイスキャンドルを2個灯す」。最もささやかな提案だった。
「『誰か』に『いつか』やってもらいたい―じゃなく、小さくても一人でもできることを、すぐに始めたい」
今年も4月末には、デシクロの走行が始まる。
「今年はもっと観光客を乗せたいな」ヤマの黒ダイヤで育ったエンジンが、次の夢へと街にこぎ出す。
(文・佐竹直子 写真・酒田浩之)
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