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じゅう箱のスミ

2005.NOV

VOL.05


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この街のスミで…

「豚も音楽をかけると耳を立たせる。うっとり聞き入ったりノリのいい曲にはノリのいい反応したりね」。ラジオが流れる豚舎に大山さんが足を踏み入れると豚たちが嬉しそうに群がる。釧路のホテルで出会った黒いスーツの男性の緊張した表情とは全く違う、穏やかな笑顔が見えた。

自分らしく生きたい 大山清春さん

2004年9月。釧路全日空ホテルのホールが、彩りも鮮やかに並ぶ料理に群がるざわめきと、ナイフとフォーク、ワイングラスが忙しそうにふれあう音で華やかに賑わった。地元食材の活用をテーマに「食の社会実験」と称し開かれた試食会。観光や行政の関係者ら舌の肥えた出席者がシェフ自慢の創作料理を堪能し、アンケートに答えていった。道東の名産品がずらっと並んだ中で、最も多くの人が「印象に残った食材」にあげたのは、釧路根室地方の食の看板である海産物でも、乳製品でもなかった。「中標津ゴールデンポーク」。地元のレストランではまだその名をあげた料理を聞くこともない、無名の豚肉だ。

「ロースの歯ごたえ、脂身のうまさは味わったことがない」「豚本来の旨み」とアンケートには絶賛の評が並んだ。長身のスマートな身体に黒のスーツ、黒のシャツ。その日会場でひと際目立った豪奢な出で立ちの男性がスピーチを指名され立ち上がった。

「まだまだ地元に認知されていず、地元消費は出荷の4分の1程度。こうした場に参加させて頂けただけでもありがたい」とその姿には不似合いな程、深々と頭を下げた。

地元に認められたい

「あのスーツ、一世一代の覚悟で用意したらしいですよ。自分なんかがそんな公の場に参加できることはもうこの先ないだろうって。それだけ地元に認めてもらいたいっていう思いが強いんじゃないですか」。後日、関係者の一人からそんな言葉を聞いた。

大山清春さん(61)。中標津町で養豚場「大山ピックファーム」を営む。43歳で歩き始めた「自分らしい生き方」が18年目を過ぎた。

赤茶けた日差しが差し込む豚舎、給餌には今も自分で歩く。

2004年12月、中標津町。吐息が一瞬でダイヤモンドダストに変わる冷え込みだ。古びた木板の間から赤茶けた日差しが差し込む豚舎で、一人静かに餌を配る。細身の身体にやや色あせた青いつなぎがぴったりと吸い付く。年間で約1000頭を出荷する現在も、直売店も含めた作業は家族のみで行っている。根室管内で養豚を専業で行っている農家は、ここだけだ。

放し飼いの豚舎に大山さんが足を踏み入れると、気づいた豚たちが嬉しそうに駆け寄り鼻をすり寄せる。まるでペットだ。

「豚はかわいいね。最終的には出荷するけど、それまではたっぷり愛情かける。うちのはみんな優しい顔しているでしょ。だからやってるんだ」。

標茶町虹別出身。酪農家の10人兄弟の9番目に生まれ、物心ついた時には乳搾りを始めていた。動物に囲まれ育ち、釣り、猟など趣味のほとんどが動物に関すること。剥製づくりの腕は自他ともに認める「プロ級」。イヌ、ネコ、ウマ、キジ…とこれまでに飼った動物は両手では足りない程。そして「豚」が、人生を変えた。

「豚」が変えた人生

会社勤めの傍ら、妻の千鶴子さんの母親が細々と行っていた養豚を引き継ぎ、親豚2頭から始めたのが33歳の時。肉の旨みと繁殖力、生まれたばかりの子豚がへその尾がついたまま母親の乳房に吸い付いていく生命力に魅力を感じた。

1986年43歳、勤めていた雪印乳業中標津工場を「豚飼いをやる!」と宣言し退職。折しも1年程前から豚肉の価格が下降し、道東でも養豚の廃業が相次いでいた。

「皆がやめてる時に、お前、おかしいんじゃないのか」「せいぜい続いて3年だな」。そんな失笑が聞きたくなくても聞こえてきた。

「1年くらい悩んだな。子供もまだ小さかったし会社で勤めてた方が安泰。余計なこと考えるな、忘れろっていくら頭を振っても、豚の顔が浮かんでくる(笑)。自分の人生は何なんだ、このまま終わっていいのか、今できることは何なんだ―っていう問いかけも心の中にずっとあった。最終的に決断したのは、自分らしく生きたかったから」。

家内リサイクル工業?!

建築現場/97年
廃材で建設を始めた直営店

大山さんに案内された豚舎横の2階建ての直売店。よく見ると窓や扉の枠の色形がひとつずつ違う。聞くと、解体した建物の廃棄物から使えそうな建材を譲り受け、家族で建てた店だという。建材を集めるだけで2年間かかった。豚舎も9棟のうち6棟は廃材で手づくり。いわば「家内リサイクル工業」だ。豚舎のストーブも同様で、しかも燃料も「廃油」。

「最初の頃はあちこちの解体現場のぞきに歩いたんだけど、そのうちあっちから『これ使えるよ』って届けてくれるようになった。リサイクルなんて格好いいもんじゃない。コストを削ってるんだ」。

開業までの準備と当座の運営で退職金のほとんどは消えた。「節約大作戦」の一方で、豚への投資は惜しまなかった。餌は自家配合にこだわり、大麦、でんぷん、ふすま…、そしてチーズ製造時に生まれる乳糖とたんぱく質を混ぜる。これで肉に甘みが増す。雪印乳業時代のチーズづくりの経験が生きた「裏技」だ。

「安全な肉」を作るため、病気の予防に一般的な抗生物質の投与は避け、出産後は母豚の母乳を与えた。母豚は、農場の免疫を母乳から子豚に与えられるよう放牧し、農場の草を食べさせた。子豚は3カ月で放し飼いの豚舎に移し、健康的な成長を図った。―が問題があった。十分に運動した元気な豚はよく食べた。

開業後しばらく、市場では豚の価格はどんどん下落した。一方で元気な豚の餌代はどんどん膨れた。「豚を食べさせるために働く」。そんな構図の自転車操業が続いた。それでも放牧はやめず、餌の質や量を減らすこともできなかった。「極上の豚肉を生産する」ことが、再スタートの目標だったから。

「後悔したことないって言ったらウソ。自分が決めた道だって胸張る反面、なんでこんなことしちゃったのかな―って夜中に目が覚めて、帳面引っ張り出して利益率計算して―なんてしょっちゅうだった。女房の『心配したってダメだ。確実に前進してる、後退はしてないんだから』って言葉に背中を押され、子供に『借金したって首とる人はいない!』って励まされ(笑)。自分の夢に付き合わせたはずの家族が、逆に引っ張ってくれた」。

酪農が基幹産業の地元で、一匹オオカミの「豚飼い」が流通経路を確保するのは簡単ではなかった。数年後、安定した出荷先を得たがそのほとんどが本州方面。地元の食卓には届かない。

「道東で認められなければ「中標津の豚」とは言えない」。

極上のゴールデンを

97年、豚舎横に廃材で直営の販売店を建てた。モットーの「できるだけ自分たちで」は守った。家族ぐるみで昼は豚の飼育、夕方から店や豚舎の建設、夜は販売のための肉の解体の練習―そんな毎日が続いた。

開店はしたが、宣伝する費用なんてない。そんな時、ハンターや将棋の仲間たちが「口コミ作戦」に動き出した。トラックの運転手は無線でドライバーたちに宣伝した。定期的に試食会を行い、ホルモンなどの加工品の味付けを批評した。時には千鶴子さんが泣き出す程の酷評もあったが、それもすべて地元に受け入れられる商品に育てるための愛情だった。

宣伝を兼ねた試食会を赤字覚悟で「1000円飲み食い放題」で始めた。仲間たちは会社を休み、交通整理から集金まで行った。5年目、参加者は250人にまで膨らんだ。

「自分らしい生き方を―と思って始めたが、分かったのは、人間は独りでは生きていけないってことだった」。

中標津ゴールデンポーク。「中標津でしか手に入らない極上の肉」、その生産を誓い89年に出荷品をそう名付けた。

「今は『シルバー』ぐらいにはなってきたかな。ゴールデンまで、もうひと踏ん張り」。家族を振り返り、目くばせした。(文・佐竹直子 写真・酒田浩之)

Photo:2004年12月 一緒に「ゴールデン」を目指す家族と直営店の前にて
左から 長男陽介さん/お嫁さん久美さん/長女あきさん/大山さん/妻千鶴子さん


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