「生きるって楽しいことが沢山あるってどうしても子どもたちに知らせたい。でも、教えるんじゃダメ。大人が楽しんでる姿を見せれば、子どもたちだってきっとついてくる」。 小学生の頃の自分を映しているかのようなクルクルとよく回る瞳でそうつぶやく。 |
「わたしは羅臼町の出身で、小さな街の子どもたちにも…」。
3年前の春。北海道教育大釧路校が道内5分校の再編問題で揺れ地元で発足された「存続を求める会」の会合。発言しようと立ち上がった一人の女子学生が、冒頭で涙に詰まり言葉が出なくなった。
住民として出席していたわたしは、彼女の消えた言葉にこもっていたはずの思いが気に掛かり、ガラス玉のような大きな涙ととともに忘れることができなかった。
1年後の3月。ある教授に会うため大学の研究室を訪ねた。迎えたのは、少女ように瞳がくるくるとよく動くオテンバな笑顔の学生。4年間通う不登校の子どもたちのためのフリースクールのことを話し始めた。そこは釧路から車で6時間の夕張市。一度に一週間滞在し、年に3、4回訪ねる。子どもたちの成長を語りながら「彼らとの出会いがあるから今の自分がある」と、ガラス玉のような大きな涙を落とし、言葉を詰まらせた。
あの時の彼女だ―。涙の玉に映った声にならない言葉に、わたしは再び心を動かされた。
木下郁恵さん(23)。現在、道教育大釧路校大学院2年。今年4月、標津町忠類川を拠点に道東の川を子供たちと探検する「北の川探検隊」を発足。「遊びなら、子供たちには全然負けない!」と自信満々胸を張る事務局長だ。
毛糸で釣ったオショロコマを手でさばく。エラをえぐりとり、内蔵をギュッと指で押しだす。木の枝に刺して河原の焚き火で焼き、ムシャムシャかぶりつく。手づくりイカダで、何度も沈没しながら漂流する。川の水がめ通称「魚どまりの滝」に子供たちより先に飛び込みザブザブ泳ぐ。水中眼鏡で静かに水がめの中をのぞく―すると見えてくる。上の方にはヤマメが、下の方にはオショロコマが泳ぎ別世界だ。何でカナ。よ―く見ると口の向きが全然違う。もぐってみるまで全然気づかなかったことだ。「見えなかったものが見えてくる感覚を味わいたくて今も川に行き続けているのかもしれない」。そうつぶやき走り回る「オテンバ」事務局長だ。
「北の川探検隊」の子どもたちと。「遊びなら子どもたちに全然負けない!」 |
「子どもたちをあの場所に連れていきたい。こんな楽しいことがいっぱいあるのに知らずに育っていくのがもったいない。言葉じゃなくて実感として伝えたいんです」。
教師になりたい。そう思い始めたのは中学の時。「小学校の頃がすごく楽しくて…」。声にならない言葉を映した大きな涙の玉をまた一つ落とした。
小中学校時代は自然の宝庫、羅臼町で過ごした。小学生の「少女郁恵」は遊びをドンドン自分で作った。町の天然露天風呂の名湯「熊の湯」にザリガニがいると聞けば、すぐに走った。スーパーで買ったイチゴが入っていた透明パックを水中眼鏡がわりに顔に押し当て、沢の水をためた貯水槽をのぞきこむ。底からザリガニをムンズと拾い上げニッコリ。
廃材を集め基地を作る。パイプを作り沢から水まで引っ張る本格的基地だ。毎日、毎日全身泥んこになって駆け回った。
中学に進むと、友達は皆、もう泥んこじゃない。関心はファッションや音楽。基地づくりなんてもう誰も振り向かない。ドウシテ?変化についていけなかった。
ホントはまだまだ自然の中で遊びたい」と思う自分を隠し始めた。学校は「授業不成立」なんて当たり前。気に入らない教師の授業は「聞かない」「教室内を歩き回る」ナンテことも毎日当たり前。「こんなの学校じゃない―」。そう思うことも一度や二度じゃなかった。
「あの頃の自分は突っぱねるしかやり方を知らなかった。最初は反発したけど、もっと皆の気持ちが分かる大人になりたい―って思った」。
夕張のフリースクールに通い始めたのは大学入学後間もなく。「不登校」と呼ばれる子供たちと学校、寄宿舎で一週間生活をともにする。
木下さんの授業を受ける夕張のフリースクールの生徒たち |
緊張の初訪問。金髪にピアス、スケートーボードで「ひゅんひゅん」走る少年たち。「こんにちわ!」と声をかける。「…」、ムシ。
そこには全国から集まった10代の少年少女たち10人余りが寄宿生活をしながら通っていた。仲良くなんなきゃと気合いを入れ、冗談なんか言ってみる。「ふざけんな!」とガンが飛んだ。オタオタしたあと、ハッと気づいた。
「ご機嫌とりが見抜かれた」。中学時代「こんなの学校じゃない!」と反発していた自分も、大人の表面的な態度を冷ややかに見ていたはず。
「子どもにはウザがられてなんぼ!」そう開き直った。
不登校の子どもたちのケースはさまざまだが、一様にして人との接触や団体行動を嫌う傾向が強い。学生たちが運動会、学芸会―と企画を持ち込んでも「かったりー」と煙たがる。
「子どもたちの『あんなことやってみたい』って顔をどうしても見たかった。だって楽しいことはいっぱいある」。
沖縄のエイサーをやろうと道具一式を担いで勢い乗り込み、子どもたちに「こんなのやってられるか!」とバチと太鼓を投げ出されたこともある。そんな「ハズシ」は珍しくない。でも、寝食、風呂もともにし年間30日近くをそこで過ごした4年間で子どもたちの態度が「しょうがいないから付き合ってやるかぁー」から始まり、バンド、巨大かまくらづくりと、少しずつ活動に楽しさを見出してきているようにも見えてきた。
木下さんら学生たちとヨサコイを練習する夕張のフリースクールの生徒たち。 |
2002年夏、学生提案のヨサコイに子どもたちが乗った。ソノ気にさせる格好いいお手本をと、学生たちが釧路で2カ月の特訓を重ねた成果だ。学生は通常は一週間の滞在を2週間に延長した。
小学校1年の時2日学校に行ったきり不登校となった15歳の少年が大好きな男子学生と一緒に「前で旗を振る役をやりたい」と手をあげ周囲を驚かせた。「当日、やっぱりやめたって言うんじゃない?」との周りの心配をヨソに、50人を越える観客の前で踊り遂げた。彼を知る人々は驚き、そして号泣した。
「年齢的には中学3年。卒業―夕張を去る最後のけじめっていう彼なりの決意があったはず。その姿に教えられたのはわたしたち。人を変えるのは人なんだって」。
話しをした数日後、木下さんから手紙が届いた。わたしの心にずっと引っ掛かっていた、彼女の大きな涙の玉の中にいつも映っていた声にならない言葉が、そこにはあった。
木下さんからの手紙(抜粋)
「誰にだって落ち込む時がある。自分はダメだなぁとなぜか泣けてきたり、自分の存在があまりにちっぽけで誰からも認めてもらえないような錯覚に陥ったり。わたしの中学、高校時代はまさにそうだった。そんな時、小学校の時大好きだった先生から手紙が届いた。『あなたはあなたのまま、素直なままの郁恵でいてください。郁恵のストレートな心は、君の宝ものだよ』。
心の中でモヤモヤと渦巻いていた苦しみをはきだすかのように、わたしはおいおいと泣いた。自分を表に出すことに臆病になってしまったあの頃のわたしと、夕張で出会った子どもたちはどこか似ていた。
直球しか投げられなかったあの頃のわたし。傷つきやすくて、でも自分を曲げることに精一杯抵抗し続けた。あのとき、先生からもらった『わたしはわたしのままでいい』という言葉は、今も心の支えになっている。自分に自信が持てなくなった時、その問題とトコトン向き合う勇気は、自分を絶対的に認めてくれる人間の愛情のもとでしか生まれてこないのだとわたしは思う。
あれから10年。ちょっぴり自分が嫌いになりそうになった時、その手紙を開いてみる。相変わらず目にいっぱい涙をためながら」。
「次はオショロコマの産卵の『くねくねダンス』を子どもたちに見せます!」。北の川探検隊オテンバ泣き虫事務局長、23歳。夢は「何が大切か自分で考え楽しむ喜びを、いつかわたし自身のやり方で子どもたちに伝えていくこと」。そう言って、小さな涙の玉をまた一粒落とす―。
(文・佐竹直子 写真・酒田浩之)
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