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じゅう箱のスミ

2004.SEP

VOL.03


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この街のスミで…

2004年7月
十條スケートセンターで、六花亭ベアーズの練習を見守るマネージャーの田川さん。「勝ち負けは100%監督の采配、私はそこに行くまでの裏方」と言うがリンクに近づいた途端、表情が引き締まり選手達の滑りに真っ直ぐに視線を注ぐ。

フェンスから始めて 田川恵理さん

「優勝!六花亭ベアーズ」

2000年3月14日、女子アイスホッケー全日本選手権決勝戦。1979年に「釧路ベアーズ」として発足以来、追い続けてきた夢、「日本一」が、ついに現実になった。

涙まじりの歓声とともに、感極まった選手たちが部長、総監督―と始めた胴上げの輪が、やがて、リンクの外から静かに氷上を見守る小さな影へと伸びた。現役選手を退いた後、裏方に徹し続けてきたマネージャーの手を無理矢理引き、その体をフワリと宙に飛ばした。

嫌われ者」を自称し、苦言を呈しながらチームを背後から見守り続けてきた守護神が、選手たちの頭上で静かに泣いた。

勝ち負けは監督が100%。選手が全力でリンクに臨める環境づくりと、ハッパをかけることが私の仕事。もっと大事にしたいのは、生活態度やマナー、あいさつができるとかね。リンクの外でも、胸を張ってほしいから。でも、そんな気持ち、いちいち説明しません。口うるさい役でいいんです」。

「口うるさい役でいい」

六花亭ベアーズマネージャー田川恵理さん(47)。今年で12年目。会計、遠征に関わる雑務、リンクの外の雑用、そして、選手達への「技術外」の指導を一手に担ってきた。

遠征の際、選手がホテルの部屋に忘れた物を、「これ忘れたの誰!名前書いときなさい!」と帰りのバスの中で厳しく注意することも多いという。本業が養護教諭ということもあり、選手の食生活にもうるさく口を出す。遠征にお菓子は持たせない。選手には与えられたもの以外を食べることを禁じている。隠れて間食した選手は、廊下に正座させ、叱りつけもした。

「かまい過ぎだ、自分で判断させた方

がいいと言われたこともあります。選手の中には、そうした縛りにストレスを感じる子もいる。でも、技術だけでは勝てない。精神がもっと強くなければ、自分を律する強さがなければ、日本のトップを目指すことはできない」。

厳しい口調でそう言ったあと、ため息のようにもらした。

「でも、彼女たちのこと、本気でスゴイって思う。私が選手だった頃とは、全然違うところを見ている。ヨチヨチ歩きだったベアーズが、今や日本のトップ、世界を見ているんだから」。

1983年 釧路ベアーズチームメイト
(2列右端:石端)

1979年に発足した釧路市で第1号の女子アイスホッケーチーム「釧路ベアーズ」に、2年後の81年、24歳で入部。氷都釧路とはいえ、女子には、アイスホッケーはまだ未開の地。慣れないホッケーのスケート靴で、フェンスにつかまりながら、ヨチヨチ、リンクを進むことから始まった。

白糠町出身。子供時代は体が弱く、マラソンなどの負担の大きいものは、見学だった。大学卒業後、養護教諭として阿寒町に赴任。同僚に誘われ、釧路の十條リンクで、看護士たちのアイスホッケーの練習を見学した。目の前でアイスホッケーを見たのは始めて。スティックを持って「キャー、キャー」と声をあげ走り回る姿を見て心が躍った。

「こんなに楽しい気持ちになるなら、やってみたい」。

当時、選手は20代前半から30代前半まで10人程。ほとんどが初心者。民間のリンクは使用料が高く、少数の会員からの会費だけで運営するベアーズにはとても手が出ない。練習試合をするにも、女子チームがほかにないので相手がいない。思いついたのは、小学校リンクでの子供たちとの練習試合。

ヨチヨチ歩きから

いくら下手でも、小学生とだったら試合になるだろう」と高をくくったのは甘かった。3、4年チームに見事にやっつけられた。少年たちの小さな胸に何度も挑戦し、やっと勝つと、対戦相手を5年生に格上げ。でも、なかなか中学生にまではたどりつかない。それでも楽しかった。
当時は、まだ目標がなかったけど、ゼロからチームを作り上げていくことが楽しかった。練習の後、夜半の1時や2時まで、『あんたがもっとアッチに行ったら…』と、ミーティングを続けてね」。

84年、福岡県で開かれた全日本選手権で2位に。「まだ、日本の女子アイスホッケー全体のレベルが今とは比べものにならない程低かった時代」と田川さんは評すが、チームには、大きな自信になった。田川さんは、その大会で新人賞を受賞。

その頃から、「日本一」、そして「界」へと、ベアーズの目標も変わっていった。

もっと練習したい、でも、リンクを借りることができない―。次に考えた策は、男子チームと仲良くなり、リンクでの練習の仲間に入れてもらうこと。

いつかは「日本一」

1983年 八戸
全日本女子アイスホッケー選手権大会にて
ゼッケン29番が釧路ベアーズの田川さん

チーム全員で行ったのでは、先方に迷惑がかかる。そこで、それぞれが、個人的に別々のチームで、練習に加えてもらう作戦をとった。男子選手の打った猛スピードのパックが体にあたることは、しょっちゅうだ。あざもできた。全員が顔を合わせて練習できるのは、わずか月に2度程度だったが、「いつかは日本一に」と、芽生え始めた目標に向かい、走り続けた。

89年、引退を考え始めていた32歳の時、キャプテンに。その年、全日本選手権は4位。「不本意な成績で終わりたくない。もう一度だけ、日本一を目指そう」と翌年までチームに残り、90年引退。夢は、選手として果たすことはできなかった。「負けて辞めたんじゃない。引退するまで、一度も途中で辞めたいなんて思ったことなかったし。引退に未練もなかった。選手として完全燃焼できたから」。

「やっぱりここが好き」

引退から1年後、しばらく遠ざかっていたリンクに顔を出した。「やっぱりここが好きだ」。その思いが蘇り、応援にリンクに通い始めた。折しも、チームは製菓の「六花亭釧路(当時)」がスポンサーとなり、「釧路六花亭ベアーズ」として再編成し、新たなスタートを切ろうとしていた頃。総監督への就任が決まっていた白幡博さんの目に、田川さんが留まった。「いっつも来てるけど、あの人は誰なんだ」。
あとは、押しの一手で口説かれ、93年、「釧路六花亭ベアーズ」誕生と同時にマネージャーの席を用意された。

後輩が叶えた「夢」

そして2000年、夢だった「日本一」を、後輩たちが、叶えた。

1998年長野五輪で、初めて、オリンピック全日本代表団に3人の選手を送り出した。2003年、冬季アジア大会で銀メダルを獲得した全日本チームでは、21人の選手の半分の10人をベアーズが占めた。今年11月に行われる、トリノ五輪(2005年)最終予選に向けた、全日本代表候補の強化合宿に8選手が参加。日本を代表するチームとして、今、世界への扉を叩き始めている。

「不動の日本一、そして世界へ大きく羽ばたくチームとなることが夢だけど、本当の夢は、その選手たちが、日本を代表する努力家であることを、理解してもらうこと。ヨチヨチ歩きから始めたチームをここまで育ててくれたんだから」。
厳しいマネージャーの目が、氷上で優しい先輩の眼差しに変わった。

(文・佐竹直子 写真・酒田浩之)

Photo:2000.3.14
全日本女子アイスホッケー選手権で悲願の「日本一」を叶え小田清司部長を胴上げする選手たち。
この後、田川マネージャーも初めて選手に胴上げされた。
(写真提供・釧路新聞社)


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