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じゅう箱のスミ

2004.FEB

VOL.01


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この街のスミで…

和子さんの顔を両手で包み込むように化粧水を塗る義昭さん、この化粧水、なんと義昭さんが自分で調合したもの。元理科の教員ならではのこだわり。

「オレの生き方そのものを介護に置こう」と決めた日からのこだわりだ。

男子厨房に入る 野瀬義昭さん・和子さん

「うちに来る人はみんな、和子の肌がきれいで、びっくりするんです」

野瀬義昭さん(71)は、得意げにそう話し、手のひら一杯にためた化粧水を、 妻の和子さん(63)の顔を両手でそっと覆うように塗る。

とたんに、和子さんの顔に、体中に義昭さんの体温が伝わったかのように、パーッと笑みが広がる。 こんな風に、あったかい手で毎日包まれたなら、肌もきれいになるはずだ〜と、ちょっと羨ましく納得。

義昭さんが、寝たきりとなり言葉も失った和子さんの毎日を支え続け、9年になる。 朝5時、もう習慣で寝床からはい出る。深夜、3度は起きて和子さんの寝返りを手伝うため、「起床」といえるほどの睡眠時間との メリハリはない。まず、通じの有無に関わらずトイレに入り、新聞をじっくり読む。「部屋は生活の場であり戦場だから。 一歩、入ると余裕ないからね」。

部屋に戻ると、自分の身支度と並行し和子さんのオムツと服を替え、その間にみそ汁のだしもとる。 和子さんをベッドから車いすに移し、さあ朝食。献立は義昭さんお手製のおかゆ、7種類もの野菜が入ったみそ汁に、サケ。

のどのまひのため、すべて丁寧にフードプロセッサーで砕いてある。口に含みやすいスプーンの大きさ、いすの角度や足の位置、 とろみの硬さも、念入りに研究した。ひと口ずつゆっくりと運び、費やすこと1時間半。30分間の食後の歯磨きの後は、 再び和子さんをベッドに移しオムツ交換。毎日欠かさない部屋のそうじを終えた頃には、もう昼食の時間だ。

こうして、野瀬さん夫妻の、静かで慌ただしい毎日が過ぎていく。

「女は働く動物だ」

添加物ヌキのバランス栄養にこだわり「和子も私も薬が減った」と笑う野瀬さん

お二人の出会いは、なんと、和子さんが中学生の時。義昭さんが教員をしていた阿寒町の雄別中学校で、義昭さんはE組の担任。 和子さんはA組の生徒だった。もちろん、当時から交際していた訳ではない―というのが義昭さん談だが、 和子さんが高校卒業後持ち上がった結婚話に、和子さんの父親は猛反対。結婚式の日取りが決まってもなお反対を続け、目前に急逝。 葬儀の2日後、同じ寺で、遺影を前に式をあげたというから、夫婦生活の幕開けはなんだかドラマチックだ。

しかし、結婚後、義昭さんは「男子厨房に入らず」を絵に描いた亭主関白に。和子さんは働きながら、1男2女をもうけたが、 家事、子育ては一切手伝わず、炊飯器のスイッチすら入れたことがなかった。「女は働く動物だ」と、鼻息荒く堂々と言い切っていた というから、今、エプロン姿で、家事、介護に奔走する姿とは、結びつかない。

「ずっと『妻は俺の生き方を支えろ』という考えだった。一緒に生きる―なんて考えたこともなかった。 介護を通して、あたり前の人間になれた気もする。昔のオレを知る教え子たちに『先生かわった―』と気持ち悪がられることもある」 そう苦笑いしながら、和子さんの顔を包み込む義昭さんの手の優しさに、二人の人生の長い変遷が見える気もした。

オレ流“つっこみ介護”

介護のため腰痛で倒れたこともあった。立ち上がることもできず、やむなく和子さんを介護保険施設に入所させようとしたが、 ベッドの空きがない。「何のための制度か」と声を荒げ訴えた。歯が五本根元から割れていた。地獄―9年間の苦労を時にそう言う 義昭さんは、一方で、「悲劇のヒーローになっては、自分の人生もダメになってしまうと、ある時、ふっと気付いた」とも言う。 その時から、義昭さん流、“つっこみ介護”が始まった。

食事は添加物ヌキ!!

結婚後、20代の頃の和子さん、笑顔の美しさは今も変わらない

和子さんの“美肌”を作るのは、手の温かさだけではなかった。実はこの化粧水、義昭さんが自分で、尿素、グリセリンと水を調合したもの。 香料など余計なものは一切入っていない。これが、元理科の教員の本領を発揮した、成分にこだわる"つっこみ"介護だ。

食事の材料からは、添加物は一切排除。栄養価の高い乾燥食品を重点的に使う。成分表とにらみあいながら、栄養バランスにこだわり、 少量でも多種の食材を用いるのが原則だ。買い置きはしない。スーパーを冷蔵庫代わりに毎日買い物する。

野菜の甘みは天然塩で引き出し、化学調味料は一切使わない。味付けに使う“かえし”は、醤油・みりん・酒・さとうで、手作りし、 常備してある。揚げ物は御法度。飲料水は、教え子が運んでくれる源泉に電気を通したアルカリイオン水のみ。 義昭さんが、少年のように目を輝かせながら次々と披露する“つっこみ”は、聞いていて痛快さを感じる程だ。

「始めの頃は、同じように退職した仲間からの、パークゴルフに行った、旅行に行ったなどの話しが羨ましくてね。 そんな便り読みたくないと思った。自分も何か趣味を持たないとこんな生活はやっていけないって、手際よく介護をこなして、 何とか自分の時間を作ろうとしたけど、余計ストレスがたまった。でも、ある時、ふっと、介護の中にオレがいるんじゃなくて、 オレの中に介護があるんだ、オレの生き方そのものを、介護におこうと“パチン”と考えが変わった。 それから、すーっとストレスがなくなった。このこだわりを、趣味にしたんだよ」。

かつては「男子厨房に入らず」と言っていた義昭さんが、今では「オレの厨房に入るな」とばかりに、手伝いに来た娘さんたちにも、 料理は任せない。調理器具が、感で手が届く場所にずらっと並べられた台所は、さながら実験室だ。 でもそんな生活は、あくまで“オレ流”と強調する。

「100人いれば100通り。人生観で違う。うちの介護日記をご主人に見せた近所の奥さんが、『こんなことはできない』と 言うご主人とケンカになったと言っていたけど、もっとも。介護も、自分が自分らしく生きる姿であるべきだから」。

100人に100通り

義昭さんは、和子さんが倒れてからの9年間の介護生活を「命つなぐ日々」と題した手記として小冊子にまとめ、 知人や教え子たち、新しく出会った人たちに配る。在宅介護の実態を多くの人に伝えたい―その強い思いで、今も執筆を続ける 介護の実態を多くの人に理解されなければ、社会から隔離されてしまう、そんな危機感があるからだ。

「ウチにはいつも約束なしでふらっと来ていいんだよ」と笑う義昭さんは、訪れた人たちを「生きる力を運んでくれる女神」と呼ぶ。

「介護は辛い。でも、わたしは和子と生きていく。何かをしてくれようと思うなら、訪れてほしい。この生活を知ってほしい」。

それまで集まる機会の少なかった教員時代の教え子たちが、介護の身になってからひんぱんに訪れるようになった。 親を看る身、または自分自身の問題として、野瀬さん夫妻の生活を、「介護の教室」としても活用している。 大勢の馴染みの顔から飛び交うにぎやかな歓声に囲まれると、和子さんの顔からも笑顔がこぼれる。

「人間は大勢で群がりながら生きていくもの。わたし達を、社会から置き去りにしないでほしい。 わたし達も、この街で一緒に生きていきたいのだから」。

人は群がり生きる

チャレンジ隊の仲間、15人余りで野瀬さん宅を訪れた。歌や踊りも交えた大にぎわいに、義昭さんからもれた「毎週、来てほしい」 という言葉と、和子さんの満面の笑顔に、わたしたちにできることは何か、少し分かってきた気がした。

一緒に生きていきたい―街のすみからの小さな声を、忘れずにいたい。 (佐竹直子)


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