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じゅう箱のスミ

2006.OCTVOL.12

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この街のスミで…


「あとやりたいこと、いくつできるだろう 一って考えたら『時間がない』って思うようになりましたね。
若い時、『死んでもいい』って思って山に向かってた時と、今はちょっと違うな」かつて未踏の岩壁を目指し続けた男が、次に挑む限界を探し、ビルの壁をはう一。

壁をはうクライマー 有明正之さん

氷壁から開拓の暮らしに

釧路市の中心街。5階建てのビルのてっぺんにそびえ立つ広告看板に、ロープだけで体を支え、歩くように軽やかに壁をつたうオレンジの人影が重なる。道路から声をかけると、空をバックに長い手足を広げ大の字のポーズをとってみせた。まるで天を舞うオレンジのムササビだ。

車のドアには「バイオニアラボ高所作業チーム」とある。メンバーは彼一人。有明正之さん(49)。20代の頃、当時、日本で最も過激なクライマー集団として知られた山岳会に所属。世界の「危険」といわれる山々の岩壁を、ロープ一本に命を委ね登り続けてきた。1985年、ネパール・アマ・ダブラム峰(標高6812m)。誰もが恐れた氷の「西壁」を世界で初めて登りきった。

1996年、当事、勤めていた登山用具メー力ーを退職し、39歳で埼玉県から妻のこのみさんとともに阿寒町(現釧路市阿寒町)徹別に移住。開拓の暮らしにあこがれ、都会の生活と山の世界に区切りをつけた。

「お礼」はシカの頭

徹別の原野の中に、高床式の木造の家が忽然と現れる。「廃材で、自分の手で家を建てたい」。移住の目的のひとつはそれだった。購入した土地は、今でも来訪者が途中で引き返すほどの山奥。空き家を仮住まいに借りた。釧路の職業訓練校で住宅建設を学び、近所の農家に「古い家があったら、タダで壊すから廃材を譲ってもらえないか」と呼びかけた。手応えは上々。声がかかった。

一軒家を重機を使わず手作業で解体した。-軒に3-4ヶ月はかかった。牛舎の時は一年がかりだ。予想以上の手間だった。やっと手にした廃材も、たまると置き場がなく野さらして積むしかなかった。雨に濡れた木材は腐り、ごみと化した。悔しさに地面を蹴った。

4年後、ついに念願の手づくりホームが完成した。「廃材使うのは、結局、新品買うよりコストがかかった(笑〕」と言うが、地域住民との交流は深まった。近所の老人に、家の壁にペンキを塗ってほしいと頼まれた。完成後、『お礼』と渡されたのは、獲れたてのエゾシカの頭だった。

キツネの家族が毎日顔を出し、時にはクマの姿もみかける山の生活は、移住前に描いていた理想に近い暮らしだ。「でも10年たって、次の俺の目標は何なんだーって自問自害も繰り返しています」。森の香りの風が通りぬける手作りのバルコニーで、そうつぶやく。

誰も登っていないところへ

秋田での高校時代、クライマーが書いた本に心が躍った。「生きるためには登るしかない」。その厳しさに憧れた。東京の夜間大学に進学。海外での登山は金もかかった。資金稼ぎのためのアルバイトにあけくれた。ビルの窓拭きなどの高所作業は、登山仲間の定番のアルバイトだ。当時、住まいは千葉県。昼間のバイトが終わるとトレーニングがわりに、都内の大学まで片道18Kmを自転車で走った。学食で夕飯を食べると、講義は受けずまた18Km走り帰宅。夜は体力づくりの時間にあてた。「世界でまだ誰も行っでないところに登りたい」。頭の中は、それだけだった。

「生きるために登る」
そのギリギリの限界に挑んでいた頃

「山の岩壁を登るアルハインクライミングの中でも、特に厳しさを追求している人は、日本ではまだ100人ほど。おそらく一番死亡率が高いスポーツ。当時、入っていた山岳会では10年間、毎年-人以上死んでいた。怖がるとできないが、恐怖心がゼロになると死ぬ。度胸と恐怖のバランスで生き残る世界」

85年、世界で初めてネパールのアマ・ダブラム峰西壁のクライミングに成功した。5年に一度大雪崩が発生するとも言われる危険度の高い崖だ。命綱を外して登る1大きな賭けにでた。もちろん危険は伴う。しかし登る時間は短縮でき、雪崩に遭遇する確率は低くなる。二つのリスクを天秤にかけ、命綱を外した。タイムは通常の3分の1だった。「まだ誰も行ってないところを登る」。抱き続けた夢を実現した。「百分の一のリスクの確率を危険とみるか、チャンスとみるか、そこが限界との闘い」

消えた「山」の文字

1985年 アマ・ダブラム峰頂上で。
誰もが恐れた氷の「西壁」を世界で初めて登りきった。

30歳、先輩が立ち上げた登山用具会社を手伝い始めた。会社はやればやるほど伸びた。またたく間に業界トップクラスに躍進した。会社のナンバー2となった。仕事に没頭する日々が続き、スケジュール帳から「山」の文字が消えていった。気がつくと10年が過ぎた。「田舎暮らししたいなあ」。そんな言葉がもれた。

「俺って真面目な日本のビジネスマンになったよなあって、ふと思ったんです。仕事は面白かった。業績も給料もどんどん上がる。ただ、このままいったら、20代の頃に積み重ねてきた生活とはずいぷんかけ離れていくよなあーって疑問がわいてきたんです」辞職を申し出てから、仕事の引継ぎには1年かかった。

移住先を決めたが、道東の山にクライミングできる岩壁はなかった。「まっ、いいか」。山への思いは、自分で家をたてる開拓生活への夢に切り替わった。

働きづめの10年で蓄えもできた。妻のこのみさんが、在宅の仕事を移住後も続けることができたこともあり、「5年間は生活環境を整えることに専念しよう」と決めていた。自宅が完成し、コンピュータ関連の仕事を始めたが、積極的になりきれない自分がいた。「20代で山で世界のトップを目指し、30代で会社を業界トップクラスに育てた。俺はなんだってできるーと自信満々だった。でも、第一線を離れてから月日がたつにつれ、そんな自信がどんどんなくなってきてました」

「高所作業できます」

2004年、一年後にパキスタンのスンマ・リ(標高7286m)を目指す登山陵から声がかかった。迷った。海外の本格的な山にはもう20年近く登っていない。自分にテストを課した。羅臼岳、斜里岳、雄阿寒岳、雌阿寒岳、阿寒富士を車での移動時間も含めてまる一日以内で縦断する「24時間マラソン登山」の達成だ。スンマ・リを登る体力の基準を、自分で勝手にそう決めた。トレーニングを本格的に始めた。テスト実行。一人マラソン登山を、23時間でゴール。パキスタン行きを決めた。山登りには費用がかかる。どう捻出するか?自分にできることは何か。一番の得意分野は「高いところ」。

「高所作業できます」。チラシを作り、建設会社や不動産会社に配った。二級建築士の資格もとっていた。技術者でもあることをアピールしたが、最初の仕事はビルの窓ふき。何だってやろうと思った。学生時代のバイトが生きた。オーナーの自宅の窓拭きも頼まれた。その姿を見かけた近所の家からも声がかかった。

最近の住宅は天窓など高い場所にガラスが多い。「いけるかも」。年末の大掃除シーズンに住宅地にビラを配ってみた。申し込みが殺到した。企業相手の飛び込みの営業で、高所での壁の補修や看板の塗り替えの仕事もとれた資金集めは目標額を達成した。

2005年8月、北海道からパキスタンに向かったスンマ・リ登山陵8人は、隊員のほとんどが高齢者だったこともあり、タイムオーバーで山頂を目指すことは断念した。

10年目の転機−

「この登山への挑戦がひとつの転機。例え山の資金集めのためとはいえ、前の会社ではナンバー2として全国の業界関係者を相手にしてたのに、窓ふきの現場仕事からの再スタートは正直、最初はきつかった。でも、だんだん、小さな仕事でも今は自分が経営者だって誇りを感じてきた。世界の山を登ってきたことも、家を建てたことも、全部生かして仕事にできた。体力もテストできた。今が、人生の次のステップを考える時、また挑戦しろよって、山に背中を押されたんだ」

20代で山を目指し続けた10年、30代で会社のナンバー2として走った10年。49歳の今年、移住から10年がたった。10年サイクルの転機の年だ。ビルの壁をはうクライマーが、次に挑む限界を探し、屋上ごしに青空を仰ぐ。

(文・佐竹直子/写真・酒田浩之)

徹別の山奥の自宅前で薪を割る。開拓の暮しも今年10年を迎えた。

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