チャレンジ隊の人・声・街をつなぐ サクサク情報 おしょーゆマガジン

じゅう箱のスミ

2004.JUN

VOL.02


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この街のスミで…

五月、ズリ山の斜面でまだ葉が色づく前のシバザクラの苗を見守る近野さん。

土の感触を確かめるように足もとをじっと見下ろし、しっかりと踏みしめていく姿に、この山との深い絆が見える。

樹はささやく 近野周悦さん

サ―ッ。ひんやりと冷たい木の幹にそっと耳をあて息を止める。樹液が流れる。木が生きている証だ。「調子はどうだって聞いてやる。すると、ちゃんと答えるんだ。陽当たりが悪いから、なんとかしてくれ、助けてくれって言う時もある」。

近野周悦さん(68)。古い大きなトドマツの幹を、がっしりした腕で抱きしめ、静かに耳を寄せる。

斜面の小人

4年ほど前、市内春採の、旧ヒルトップの高台下の大きな斜面に、小さな人影を見た。広い斜面のすみっこで、一人せっせと動いている。まるで働き者の小人。雨の日も、風の日も小人はいた。その光景が、なぜかしばらく頭から離れなかった。

そこは、閉山した旧太平洋炭砿が、石炭のクズを捨て続けてきたズリ山。その小人は、炭砿―『ヤマ』で育った「近野さん」という、頑固な元炭砿マンであること。ズリ山で芝桜育成に取り組む「釧路芝桜の会」に協力し、一番辛い雑草刈りを続けている方だと知ったのは、ずっと後だった。

「街のためなんて大上段じゃない。オレは、ずっとここで生きてきた。ここいらの山は、オレたちの暮らしのために裸になったんだ。木を切り、そしてオレたちは生かされてきた。命があるうちに、少しでも緑を戻さないと、申し訳ない―」。

ヤマの街で生まれ、育った。戦前、春採から、武佐周辺の山々は、やんちゃ坊主の近野少年には、かっこうの遊び場だった。

太平洋炭砿、興津の坑道で父親の周次郎さん(上-左)「ガンケのマツ」と呼ばれるヤマの頑固者も、自然には優しく語りかけた

今のズリ山も、当時はドングリやイタヤカエデ、ツタがからまる大木がうっそうと茂った、ジャングルだった。子供たちにとっては、さながら遊園地。森の精のように、あっちの木からこっちの木へと、フワフワと飛び回る歓声が、いつも山にこだました。
やがて、戦争が始まった。ヤマに食糧難が押し寄せようとした時、食卓を守ったのは、この山の木々だった。

少年たちの目の前で、武佐、春採一帯の山の木々は、バタバタと切り倒されていった。すべり台がわりにしたあの太いツルも、真っ青な太平洋を一望させてくれたあの大木も、友達のように一緒に成長したあの若木も、あっという間に消えた。そして、あとには、食糧を作る畑が次々とできていった。

山は裸になり、食卓には食べ物と笑顔が戻った。ヤマを飢えから守ったのは、犠牲になった、やんちゃ坊主たちの一番の親友、あの木々だった。
戦争は終わった。でも山に緑は戻らなかった。今度は、石炭クズ『ズリ』が積まれることになった。当時、掘り出した石炭の4割は、使えないズリだった。それを捨てる場所がなければ、石炭を掘ることはできない。「ズリが始末ができないヤマは閉山になる」とまで言われていた。

捨てなきゃ生きていけない―。そして、ズリは沢や山へと運ばれた。やんちゃ坊主たちの声がこだました山は、やがて、街を守るために、真っ黒で静かな山へと姿を変えた。

生きるために捨てる

「サクラ、ツタ、ブドウにコクワ…、おもちゃなんかいらない、山に行けば、なんだって遊び道具だった。あれが、オレの育った山」。

近野さんの自宅で庭に誘われた。1000坪はある。「庭」じゃない、「公園」だ。近野さんは、地域の中学校などで植樹するサクラの苗木も、ここで大量に育てている。庭の枯葉も無駄にしない。全部、木箱にため、堆肥として使っている。まるで造園業者の生産工場だ。「きちがいだって、あきれる人もいるさ」と苦笑いする近野さんに、自然への強いこだわりが見えてきた。

「オンコを動かすぞ」

「人間は自然に教えられながら生きているんだ」と木肌に手を伸ばす。
−自宅の庭にて−

父親の周次郎さんも炭砿マン。海岸の岸壁にしがみつく松を称して頑固者を指す「ガンケのマツ」と呼ばれる程、ヤマでは、ガンコ一徹で知られた有名人。仕事の厳しさは、同僚にも恐れられた。自宅では、子供たちを怒鳴ることも多く、そして、黙って庭づくりに精を出した。

高校生だった近野さんが、明け方まで受験勉強に励んでいた頃。やっと眠りにつきウトウトとし始めた朝の5時ともなると、周次郎さんがたたき起こす。「オイ、ちょっと庭のオンコを動かすぞ!」。それが連日だ。

「今日こそは、いい加減にしろ!って言ってやる」。そう思い庭を見たある朝、目に飛び込んできたのは、オンコの木に優しく語りかける周次郎さんの背中だった。

「おやじが、聞いたこともない優しい声で、『待ってろよ、今、陽の当たる場所に移してやるからな』って、オンコに言ってるんだ。そりゃあ、びっくりしたさ。そんなこと考えてたんだって。オヤジの厳しさに、反発してた自分が恥ずかしくなった。オンコのことをこんな風に思うんだから、オレたちのことも、きっと同じように見てるんだってさ。おやじの言葉に、人も、自然でも、自分がいっしょに生きてる相手のこと、もっと深く考えろって、教えられた」。

あのジャングルの山が裸になってから忘れかけていた、草木や自然の匂いを、また感じたい―。周次郎さんの背中の後ろで、近野さんは自然へと再び手を伸ばし始めた。

炭砿の“営林署長”

大学卒業後、父の背中を追うように太平洋炭砿に就職。成長した近野少年、“やんちゃ坊主魂”もしっかり大きくなった。担当は労務だが、緑化事業に手をだした。あきれる同僚たちの顔を尻目に、社宅や工場の敷地内、周辺の街道に、一度に1000本単位の植樹を次々と行った。

「なんで労務課長が植樹してるんだぁ」。そんな社内の声にも耳を貸さず、いつの間にかついたあだ名は“営林署長”。

「坑内では8時間、石と闘う。そこは緑なんてない真っ暗な世界。だから炭砿マンはみんな緑にあこがれる。だからヤマに緑を作らなきゃなんなかった」。

やんちゃ坊主、あの山へ

50歳を過ぎ、近野さんは、あの少年時代の山、春採の「ズリ山」に隣接する、関連会社ヒルトップの社長になった。まだ冷めやらぬ“やんちゃ坊主魂”が、「ズリ山を、もう一度、笑顔が集まる山に戻したい」、そんな思いに走らせた。

まず挑戦したのは「スキー場」。急斜面の眼下には住宅街。「冗談だよね―」と笑う人も多かったが、いやはや真剣。リフトの手配も考えた。長野県から降雪機まで借りて実験したが、斜面ならではの強風で、雪が定着せず失敗。

氷像祭りも開催した。斜面に水をまくが、そこは急傾斜。一度足を滑らせると、20メートル程は一気に滑り落ちる。落ちては昇り、落ちては昇り―を繰り返した。肩書きは“社長”でも、やんちゃ坊主はいつも作戦の先頭を切った。「氷の斜面をツルーッと下まで落ちてくような社長に、よくもまあ、部下がついてきてくれたもんだよなぁ」。

広い斜面のほんの一画に、社員と作った、ささやかな氷像が完成した。

シバザクラの植栽にも挑んだが1年で失敗。それでもズリ山の緑化への思いは断てず、土の肥やしとなるクローバーの種をまき、カラマツの苗も植えた。

61歳で退職。ズリ山を花畑にすることも、スキー場にすることも成し遂げることはできなかった。退職とともに、社会的活動の一切から、すっぱりと身をひいた。

1999年、かつての近野さんの取り組みを知った「芝桜の会」から協力依頼があった。ヤマに感謝を示す意味で、ズリ山に花を咲かせたいという。ためらった。でも、脳裏に、少年時代の、あのジャングルの山がよみがえった。そして、やや老いたやんちゃ坊主は、再び、ズリの山へ向かった。

「裸にして投げたままでいいのか。そうじゃない」。

近野さんをまねて、トドマツの幹にそっと耳をあてた。

「ワタシハ、イキテイル」。

樹液の流れの向こうに、確かに、小さなつぶやきが聞こえた。

(文・佐竹直子 写真・酒田浩之)

6月6日、咲き始めたシバザクラの向こうで一人、雑草を刈る近野さん。
斜面奥の林は近野さんが20年余り前に植えた苗木が成長したものだ。


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